「世界」8月号(岩波書店刊)から転載
長谷部恭男教授に聞く
安保法案は、なぜ違憲なのか
――「切れ目」も「限界」もない武力行使

はせべ・やすお
早稲田大学法科大学院教授。憲法学。一九五六年生まれ。著書に『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)、『憲法 入門』(羽鳥書店)、『憲法の円環』(岩波書店)ほか多数。近刊に『増補新版 法とは何か』(河出フックス)。



 ―― 六月四日の衆院憲法審査会で、与党側参考人の長谷部さんを含む三人の憲法学者が、そろって集団的自衛権行使の違憲性を指摘したことは、安全保障関連法案をめぐる国会審議の流れを大きく変え、法案の問題性を根本から問い直す契機となりました。
 安保関連法案の内容は多岐にわたるものですが、その基礎になっているのは、集団的自衛権の行使をみとめ、他国軍ヘの後方支援を拡大する昨年七月一日の閣議決定です。その評価から、まずはお話しいただけますか。
 長谷部 ご存じのとおり、あの閣議決定は、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる、したがっで、従来の政府見解における憲法九条の解釈の基本的な論理の枠内にとどまる必要があるといっています。
 その基本的な論理とは、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて」武力の行使が許されるということです。
 しかし、もともと憲法九条の存在にもかかわらず個別的自衛権の行使だけは許されることの根拠であった一九七二年の政府見解の一部分をもってきて、個別的自衛権とは本質をまったく異にする集団的自衛権、要するに他国を防衛する権利の行使が許される根拠にするというのは、どう考えても変です。

法案も答弁もあいまい

 長谷部 閣議決定には、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限って、集団的自衛権の行使は許されるとあります。
 これは、いかにも行使の範囲を限定しているように見えますが、安倍首相は、ペルシャ湾のホルムズ海峡まで、つまり地球の裏側まで出かけて行って武力の行使ができると答弁している。いかにも限定的に見える文言と、実際に政府が意図していることとのあいだに、常識的には理解できないようなギャップがあるわけです。
 ホルムズ海峡に機雷が敷設されたという例で、首相は集団的自衛権が行使できる「存立危機事態」にあたりうると言い、公明党の山口代表はそうではないと言い、与党の党首間でも見解が分かれている。何なのかわからないわけです。また、機雷掃海も武力の行使ですが、これを超える武力行使がゆるされない根拠、論理的な理由も示されていません。限界が不明確というより、限界はないということなんだと思います。
 首相は、あれはしない、これはしないと仰っていますけれども、それはいまこの時点では彼は「そういうつもりはない」と言っているだけです。彼の考えが変わりさえすれば、そして政府が必要だと考えるのであれば、どんなことをするのかわからない。歯止めはないと言っていいでしょう。従来の政府見解の基本的な枠を超えていることがここでも裏付けられるわけで、結局、憲法違反だろう、と。法案そのものも曖昧ですし、国会論戦を聞いても、政府側の答え方には、誠実に説明しようという姿勢が感じられない。

 ―― 集団的自衛権の行使は合憲であるとする憲法学者の中には、他国が攻められても、日本が「存立危機事態」に陥ることはあり得るのではないか、という人もいるようです。つまり、従来、個別的自衛権の行使とされてきた場面の一部を集団的自衛権の行使として整理し直しているだけだと。
 長谷部 内閣法制局長官は、そうした極めて限定された場合だけ行使が許されると言っています。しかし、自衛隊の出動を命令するのは首相であって内閣法制局長官ではありませんから、限定の不明瞭さの問題が解消されるわけではありません。
 他方、長官の言うとおりに限定されたとしても、集団的自衛権である以上、攻撃を受けた国が日本に援助を要請しない限り、日本は自国の存立の危機が深まるのを手を拱いて見ているしかありません。従来に比べて、日本は手を縛られてより危険になります。

 ――「附則により技術的な改正を行なう」一〇本をあわせて現行二〇本を改正する一括法案と、新しい恒久法案を一度に提出して、国民的な議論が不十分なまま決めてしまおうというやり方についてはどう思われますか。
 長谷部 いくつかの法律の改正に加えて「国際平和支援法」を含め、抱き合わせ販売のような形で出てきています。これまでのやり方からすると、そのうちの一つだけで通常国会を丸ごと使っても良さそうな、広範多岐にわたる大規模な法案です。それを全部まとめて出すのは、乱暴です。
 国民の大部分がわかりにくい、説明が足りないという思いを抱いていると言われていますが、当然のことだと思います。

 ――「存立危機事態」に加えて、「重要影響事態」のほうも、わかりにくい概念です。
 長谷部 これまでの「周辺事態」であれば、日本の周辺のことだろうとみんな考えていた。ところが、今度は地球上どこででも起こると言われると、何なんだろう、と思いますね。
 自衛隊の後方支援活動も、従来の「戦闘地域」「非戦闘地域」の区別を廃止して、自衛隊は新たに弾薬の提供や、発進準備中の航空機への給油を行なえるようになる。これは武力行使の一体化そのものです。外国の軍隊と自衛隊の活動が一体化するということは、結局、自衛隊が武力の行使をしていることを意味するわけで、違憲と言わざるをえない。
 そもそも、戦闘区域と非戦闘区域の区別は、現場の指揮官が、違憲である一体化のおそれに関して、具体的な状況にそくした総合的判断をその都度行なうのはきわめて困難であることを踏まえ、余裕をもって一律の判断ができるための配慮として設けられたものです。
 今回、この区分を取り払って、現場で戦闘が始まったらすぐに撤収させるなどと言われているようですが、戦争は生き物ですからそんな臨機の対応は無理でしょう。それに、米軍主導の有志連合のような多国籍軍で、日本だけ逃げるというのは非現実的ではないかと思います。

 「憲法審査会後の反論に応えて

 
―― 憲法審査会での指摘を受けて、首相や高村自民党副総裁は、集団的自衛権の行使容認は砂川事件の最高裁判決に沿ったものであると反論しています。
 長谷部 要するに、砂川判決の文面上は「個別的自衛権」「集団的自衛権」が区別されていない、ということだと思いますが、あの判決で問題になっているのは、日米安全保障条約の合憲性、より厳密には安保条約に基づく米軍の日本への駐留が合憲か違憲かという話です。安保条約は、日本の個別的自衛権とアメリカの集団的自衛権の組み合わせで、日本の安全を保障しようというものです。
 砂川事件最高裁判決から、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」という部分を抜き出していますが、この部分をふくむ段落の結論は、「憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」。九条は日本がアメリカに安全保障を求めることを禁じていないと言っているだけです。この結論を支えるために、「自衛の措置は国家固有の権能の行使」と述べているだけで、日本の集団的自衛権とは関係がありません。
 朝日訴訟のように、最高裁が傍論で憲法の一般論を述べることがないわけではありませんが、そのときは、最高裁自身がそのことを明示します。砂川判決については、今言ったとおり、そもそも集団的自衛権の行使を最高裁が許容する意図自体が認識できません。

 ―― 当時の田中耕太郎最高裁長官の補足意見、「自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛」も同じく集団的自衛権についての発言として取り上げられています。
 長谷部 補足意見は、それぞれの国が自衛をしないと世界の平和も保てない、だから「力の空白」によって日本への侵略を誘発しないために、日米安保条約があるのだと言っているだけです。真面目な議論とは思えません。

 ――「憲法判断の最高の権威は最高裁」あるいは「憲法の番人は最高裁であって憲法学者ではない」という意見もありました。
 長谷部 どういうご趣旨で仰っているのかよくわかりません。砂川判決があるぞ、ということなのでしたら、それが根拠にならないことは申し上げたとおりです。
 もしかすると、砂川判決でも一種の統治行為論を使って直接的な判断は避けられた、最高裁も判断を避けるぐらいなのだから、憲法学者も黙っていろ、そういうおつもりなのかもしれません。
 統治行為論というのは、決められた手続のもと、限られた証拠に基づいて当事者間の具体的な紛争を解決する司法裁判所の役割に照らしたとき、高度に政治的な問題について判断するのは差し控えようという議論です。
 しかし、そういう判断差し控えをすべきかどうかとは別に、違憲か違憲でないかは実体問題としてあります。それについて政府は正しく答える義務がある。裁判所に下駄を預けたから、違憲だという批判に答えなくて済むことにはならない。

  もしも法案が成立したら

 長谷部 これまでは、政府の有権解釈を担う機関である内閣法制局が、責任を持った答弁を行ない、解釈の一貫性と公正中立な信用を与えてきました。
 その内閣法制局の権威は、昨年七月の閣議決定によって根本的に揺るがされたと思います。「首相が合憲だと言ってほしいから合憲です」と言っているようなものですから。
 安倍首相は、山本庸幸内閣法制局長官に集団的自衛権の行使容認へ向けた解釈変更を迫り、それを拒否した山本さんに辞任を求めたと伝えられています。その結果、山本さんを最高裁判事に任命した。最高裁の権威を重んじているはずがありません。

 ―― 憲法学者には自衛隊の存在を違憲とする人が多い。自衛隊が海外へ出ていくことについても、当初は反対の声が大きかったが、いまは広く受け入れられている。今回も、反対があってもいずれは合憲と評価されるだろうーそうした趣旨の反論があります。
 長谷部 これまで集団的自衛権に関する見解は変わっていないというのが、政府の一貫した考え方でした。一九五四年の自衛隊創設以来、集団的自衛権の行使は認められない、個別的自衛権を行使することはできる、政府はそういう立場をずっと維持しつづけてきたわけです。
 憲法九条がある以上、自衛隊の活動については、基本的には武力の行使が禁止され、例外としてこういう場合は使えるというポジティブリストで列挙していかざるをえない。できることを一つひとつ増やして、活動範囲を広げていくこと自体は解釈改憲ではないというのが従来の政府の立場でした。今回、その枠組みそのものを変えると言っているわけですから、いままでの話とはまったく違います。

 ――「国民の命と暮らしに責任を持つのは憲法学者ではなくて政治家である」との政治家の発言もありました。
 長谷部 国民の生命と財産に責任を持つのは第一義的には政治家でしょう。ただ、それはあくまで憲法の枠内で判断をしてもらわないと。自分たちが国民の生命と財産の安全のためになると思ったからといって、憲法を超えるようなことをしてはだめです。そもそも、本当に日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増しているなら、限られた防衛資源、防衛力を全地球的に拡散するというのはおろかな発想です。

 ―― 日米関係をさらに緊密なものにすることで抑止力を高める、そうでなければアメリカに守ってもらえないんだという話もよく聞かれます。
 長谷部 どこの国も、軍事力は自国の利益にかなう場合しか行使しません。地球規模で米国に軍事協力することによって、アメリカが守ってくれる、自国の利益に反してまで日本の安全保障にコミットしてくれると考えるのは、危険な情緒論です。国家間に友情があると思う人は、国家を擬人化して考えすぎています。
 日米安保条約の五条には、各締約国は自国の憲法の規定と手続に従ってその義務を果たすと書いてあります。アメリカの場合、自国の憲法で、本格的な軍事行動を起こすには連邦議会の承認を条件としている。たとえば日本の隣にある大国との戦争を、アメリカの連邦議会が承認するでしょうか。
 集団的自衛権の行使容認で、日米両国の絆が強まるという期待もあるようですが、怖いのは、いままでは「憲法で禁止されていますからできません」と言えたのに、今度からは、「協力も可能ですが、政府の判断でそれはやりません」と言うことになるということです。日米関係は、そちらのほうがよっぽど傷つくのではないでしょうか。「使えます」と一度言ったら、どこまでもついていくしかなくなるでしょう。
 法案の国会審議も経ずに、アメリカとガイドラインで約束してしまったことについて、いまになって実現できないとなると、アメリカと日本の外交関係に響くのではないか、外国特派員協会の会見ではそうした質問もありました。だからといって、もう実現するしかない、ということにはならない。日米関係は悪くなるかもしれませんけれども、それは仕方ない。そもそも、してはならないはずの約束をしてしまったのですから。日本だって、自国の憲法に反するようなことはできないし、する義務もないんです。

 ―― この安保関連法案が成立してしまったら、この国のかたちはどうなってしまうのでしょうか。
 長谷部 そんな、諦めたようなことを言ってちゃだめです(笑)。まだまだ闘わなきゃ。

 ―― どうもありがとうございました。
(聞き手・編集部 伊藤耕太郎 堀由貴子)