能 「半蔀」

 

 

「半蔀」(はしとみ)について

『源氏物語』の悲劇のヒロイン、夕顔の上。本曲では、おどろおどろしい部分はなく、寂しさを帯びながらも美しく描かれます。全体としてゆったりとした動きで進み、後半、夕顔の花と瓢箪のかかる作り物が出て、まるで絵巻物を見ているかのような世界が繰り広げられます。

なお、上演時間は80分ほどを予定しています。

 

○舞台展開

  ワキ[]が現れ(名宣笛)、夏安吾を終え、立花供養をする→前シテ[里女]が現れ(アシライ出)、花を立てる→自分が夕顔の上の霊であるとほのめかし、花の陰に姿を消す(中入)アイ[所の者]が現れ、ワキの尋ねに応じ、夕顔の上のことを語り(居語)、五条での弔いを勧める→アイが退くと引廻しのかかった作り物を出す→ワキが五条に移動した態で作り物の方へ行き、ワキ座に戻る→後シテ[夕顔の上の霊]の声が作り物の中から聞こえる(アシライ出)→ワキと問答の後、弔いを約束され蔀戸を押し上げて姿を現す(途中引廻しを下ろす)→源氏との契りを語り舞う(クセ・序ノ舞)→夜明けとともにまた半蔀の中へと姿を消す(キリ)

  時間と場所:前場は夕暮れ時の京都紫野 後場は夕暮れから夜、夜明けまでの五条、夕顔の上の旧居。

 

「半蔀」をご覧になる上でのポイント

@   能面

前半・後半ともに小面(こおもて)、または(ぞう)という能面を掛けます(能面はかぶるとはいわず、掛けるまたは着けるといいます)。小面は女面の中で一番年若い表情で、増は神聖を帯びた天女などに使われます。どちらかは演者の選択となりますが、可愛らしい小面にしようかと考えています。

いずれの能面でも若い表情で、装束に赤系統の色が入ります。これを紅入(いろいり)といいます。反対に曲見(しゃくみ)や深井(ふかい)といった中年女性を表すもの、また(うば)など年配の女性を表すものには赤を入れず、紅無(いろなし)といいます。

 

A   装束・小道具

  前シテは唐織着流し(からおりきながし)という一番オーソドックスな里女姿です。頭は(かずら)を結い、リボン状の鬘帯(かずらおび)を巻きます。下に(はく)を着込み、唐織(からおり)を熨斗着けという着方にします。構え方は女構(おんながまえ)といって右の褄を押えている態ですが、実際には唐織紐という絹の組紐で締めています。

  後シテは鬘、鬘帯、箔は変わらず、上に長絹(ちょうけん)、下に大口(おおくち)を履きます。長絹は夕顔の花に見立てて白っぽいものが多く使われます。なお長絹紐(ちょうけんひも、または、ちょうけんつゆ)を数か所に付けて装飾を施します。両肘のあたりと背中に8の字状のもの、両袖口に一つ結び目を付けたもの、前に特殊な結び方をした長い紐を一つ着けます。大口は大ぶりな袴で、後ろが畝状になっていて大きく張り出しています。本曲では赤系が好まれ、今回も緋色か紫色になるかと思います。 

  持ち物は前後半共通で黒骨扇を持ちます(前半は開きません)。表が小人形、裏が花車になっているものを用います。

 

B  

    きわめてざっくりいうと、能のセリフのことを謡といいます。能という舞や囃子が入らない、謡だけで一曲を通すことを素謡(すうたい)といいますが、江戸時代では寺子屋での必修科目となるなど、広く親しまれてきました。様々な歴史や地理、文学知識・表現が含まれることから教材にはもってこいだったのでしょう。現代にも再びそうした動きがあればいいのに…と常々考えています。

    薪能や広いホールなど特殊な会場以外では、マイクを使うことはありません。静かな場面であっても、面を通してもしっかり聞こえるような声で、また囃子が入って賑やかな場面でもそれに負けないような声を出さなくてはいけません。

 

謡はすべて古語である上、独特の節回しで謡うため一度耳で聞いただけで意味を理解するというのは至難の業です。全詞章を添付致しましたのでご参照いただければと思います。なおこれに関してひとつお願いが。出来ましたら先に目を通しておいていただいて上演中は確認程度にしていただければと思います。

ご覧になった方から謡の意味がよくわからないと言われることがしばしばあります。確かに詞章をご覧いただくと、序詞・掛詞といった古典の授業で習った技法が多く含まれ難解な部分が多いかと思います。しかし能のストーリーというのは至極簡単で、筋の展開を楽しむというより、動き、音、間といった僅かなものの積み重ねを流れとして体感していただけることが、能を「楽しむ」近道なのではないかと私は思っています。能にはここは必ずこう意味するとか、こう感じなくてはいけない、というような制約は全くありません。例えば絵画を見るように、ご自身の感覚を目一杯に開いてご覧いただいて、終わったあとに何かが心に残りましたら、演者としては嬉しい限りです。

 

C   所作、作り物

序盤はごく静かに進み、橋掛りに出て、ワキと問答しつつ舞台に入ったかと思うと、すぐに中入してしまいます。

間狂言が退くと、布にすっぽり包まれた大きなものが出てきます。これが本曲独特の作り物(大道具)で、包んでいる布を引廻し(ひきまわし)といい、途中で下します。実はこの中に後シテが入っています。上に押し上げる形の窓が付いており、これが曲名にもある半分の蔀戸、すなわち半蔀で、夕顔の上の在りし日の住まいとなります。蔀戸の部分には夕顔の花、瓢箪、蔦が這っています。この作り物はばらばらに分解されて保管されており、その都度組み立てるのですが、花や瓢箪をどの程度つけるか、多すぎても少なすぎてもダメ、蔀戸を上げたときの様子も考慮して…とセンスが問われます。

動きとしては、暫くは鬘桶(かずらおけ)という椅子に腰かけたままワキと問答し(地謡が謡いますが、内容としてはシテとワキの問答となります)、クセの前で立ち上がって作り物から出て、ここからはクセ、序ノ舞、キリと舞い通しになります。
 クセは様式的な動きが多いのですが、本曲は割と具体的な所作が多く出ます。まず合掌(がっしょう)という手を合わせる型。地謡も「南無
当来導師…」と謡います。次に惟光を介し源氏が夕顔の上と和歌を詠み交わす場面ですが、招キ扇(まねきおうぎ)という右手を上下させる動きをし、香を焚きしめた扇に書かれた歌を源氏が詠むという所作があります。そして大左右(おおざゆう)というジグザグに動くクセの定型の動きがあった後、源氏が触れた扇を眺める型が入ります。

序ノ舞(じょのまい)では、最初に(じょ)といって足拍子を2つ踏み、その後ゆったりと三段(カカリ、初段、二段、三段と区切りがあります)舞います。

キリでは掛け合いをしながらほのぼのと白む空を眺め、再び元の半蔀へと姿を消します。途中で月ノ扇(つきのおうぎ)という月を眺める型をしますが、本曲の場合、例外的に月ではないものを見ます。最後は作り物の中で座り、扇を左手に取って顔を隠す型、面オオウ型(おもておおうかた)をします。これは自分の姿を恥じて隠す時などに使われますが、ここでは姿が見えなくなったことを表します。なお、曲の終わり方は、そのまま作り物の中にいる場合、立ち上がってシテ柱の方に行く場合がありますが、これは当日ご注目ください。

 

D   囃子

能の囃子は笛・小鼓・大鼓・太鼓の四拍子があります(本曲では太鼓は入りません)。謡と囃子は一見するとそれぞれ勝手にやっているように見えるかもしれませんが、実は拍数などがかなりキッチリ決まっていて、ヨーとかホーといった掛け声は声楽的な要素以外にその拍数をお互いに確認し合うためでもあるのです。その中でさながらジャズのように、それぞれが自分の主張を出しつつ、また相手の想いを感じながら舞台は出来上がっていきます。

   ワキは名宣笛(なのりぶえ)という笛のみの演奏で静かに登場します。前シテ、後シテともアシライ出(あしらいだし)という静かな囃子で登場します。この囃子は気が付いたらふと佇んでいた、どこからともなく現れた、といった雰囲気です。笛は流儀によって入る場合と入らない場合があります。なお、流儀によっては後の出は習ノ一声(ならいのいっせい)になる場合もあります。

  序ノ舞は笛が呂(りょ)中(ちゅう)干(かん)中という4つの旋律を繰り返します。それぞれ段では段の譜があり、初段と二段にはヲロシという低音でゆったりした譜が入ります。なおここで足拍子を踏みます。

 

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 「半蔀」は内藤藤左衛門(または内藤左衛門)という役者ではない人の作品といわれています。珍しいケースですが、五流とも現行曲で、上演頻度も割と高い曲です。いかにも能らしい、所謂本三番目物としては上演時間が割合短く、有名な『源氏物語』を題材にして、かつ美しい詞章や所作といったところが、ご覧になる方にも、また演じる側からも人気がある要因ではないかと思います。

 偶然ながら、夕顔の上と光源氏が会った「何某の院」というのは融大臣の河原の院であったようです。金春流にはありませんが、同じ夕顔の上をシテとした「夕顔」ではそのような記載があるそうです。4月の自分の会、そして今回と図らずも縁のある舞台≠ニなりました。

 今まで三番目物は「羽衣」「胡蝶」「葛城」を勤めましたが、大小序ノ舞(太鼓が入らない序ノ舞)はシテでは初めてです(「二人静」のツレは一度勤めました)。動きの少ないものはごまかしが利かず、実力がもろに出てしまいます。12月の「道成寺」も見据え、しっかりと勤めたいと思います。

 

シテ方金春流能楽師

中村 昌弘